megspoonのブログ

機能不全家族の末路

幼少期の万引き

私は幼少期、時々 万引きをしていました。
悪いことだと思っていてもどうしても欲しいものがあったのです。


でも、買って欲しい と表現することはできませんでした。
その理由は前回書いたブログの通りです。


ある日、あるお店で 私はスーパーボールを万引きしました。
キラキラしていて少し大きめのスーパーボールです。
当時 学校で流行っていたのです。

私は手でそれを握りしめ 、そのまま 自分のポケットに入れたのです。


一緒に来ていた祖母にそれが見つかり、 とても怒られました。
「これどうしたの?」
「お金払わないとおまわりさんに捕まっちゃうよ!」
祖母は両腕を前に出して、手錠をかけられるポーズをして見せたのです。

私はスーパーボールを元の棚に戻しました。


私にとってこの出来事は本当に悲しい出来事でした。
万引きをしてはいけないことぐらい 、子供でも知っているのです。

でも言えないのです。
買って欲しいと…。


表現したところで 願いなど叶わないのです。
表現できるような家庭環境ではなかったのです。


私の家庭では無意識に
「話すな !」「感じるな!」
「口答えするな!」とというメッセージが蔓延していたのです。


私は家庭の中でいつも 恐怖を感じていました。
暴言や暴力もそうですが、私の気持ちや意見はいつも無視されてきたのです。

買って欲しいという気持ち
怖いという気持ち
寂しいという気持ち
話を聞いてほしいという気持ち
怒鳴らないで欲しいという気持ち
苦しいという気持ち…


これらは全て無視されてきたのです。

私は祖母にはこう言って欲しかったのです。

「スーパーボール 欲しいんだね」
「でも買って欲しいって言えないんだよね…」
「買って欲しいって、言えない理由があるんだよね…」


子供は善悪を知っています。
表現できないのには訳があるのです。
赤ちゃんの頃は皆思う存分 自分を表現します。
それができなくなっていくのは子供の責任 なのでしょうか?


私は親や周りの大人の責任だと思うのです。
子供の気持ちを汲み取る 共感能力のなさではないでしょうか。


私はスーパーボールが欲しいわけではなく、「欲しいという気持ち」、でも「言えないという気持ち」をわかって欲しかったのです。

買って欲しいと言えなくて

私は子供の頃から、何か買って欲しいものがあっても、親に「買って欲しい」と言えませんでした。


我慢と遠慮があったのです。


両親はいつも不仲で、家の中がピリピリしていました。
親の不機嫌は子供にとったら脅威でしかなりません。


買ってほしいと無邪気に表現することができなかったのです。


何か言われるんじゃないか…
怒られるんじゃないか……


親の顔色を伺って
不安や恐れでいっぱいでした。

それは、大人になってからも続きました。

甘える 、頼るがなかなか出来ませんでした。

傷ついた分、 自立が早かったのだと思います。


欲しいものは自分で買う!

何でも自分でやる!

こんな風に自立をしていきましたが、心の中では大きな 【依存心】を抱えていたのです。

読んでいただきありがとうございます🌸

話さない事が最大の自己防衛


私は自分自身の話しをする事は滅多にありません。
いつの頃からか、話せなくなっていたのです。

父は非常に自己中心的で、気に入らない事があろうとなかろうと暴言を吐き、暴力を振るう人でした。

父にとって、自身の【欲求】だけが重要であり、全てだったのです。

「くだらねえ」「金を入れろ」という言葉が口癖で、ときに私の容姿をあれこれと指摘する事もありました。

そして、母は私を守ってくれる事は1度もなく、無関心だったのです。


自己中心的な親は、子供が親のために生きることを要求し、子供が自分自身の気持ちや意思を持つことを阻みます。


そして、恐ろしいほど「子供の心」に無頓着であり、無神経なのです。


私の心は常に恐怖に満ちていました。
度重なる理不尽な暴力、暴言
前面DV
毎日繰り返される激しい夫婦喧嘩
何時いなくなるか分からない母の家出……


子供にとって、親は重要な人物であり、家庭は世界そのものです。
そして、親子関係は対等の関係ではありません。親は養う側であり、子供は養われる側です。


どんな親であろうと、子供はその親に依存しなければ生きていけない、無力な存在なのです。
そして、愛される権利があるのです。


父の暴言、暴力
母の家出、無関心な態度


親のこのような態度は、子供にとって無意識に「死の恐怖」を感じさせます。
親と子供では圧倒的な力の差があるからです。


死の恐怖を感じながら、子供らしく無邪気に、自分自身の話しなど到底出来ません。


ナチス強制収容所にいたユダヤ人は、いつ殺されるか分からない恐怖の中で過ごしてきました。

「お腹が空いているので食べ物をください」 
「怖いので暴力を振るわないで下さい」
「私達を自由にしてください。」

人間としての当たり前の感情と欲求すらも、表現出来ない環境下だったのです。


私も、長年その様な環境下で生きてきました。
長い間、恐怖心に支配された心は、そう簡単に拭えないのです。

得手不得手の問題ではなく、

●傷ついた心を守る為
●もう2度と傷つかないようにと

自分の気持ちや欲求を表現出来なくしていったのです。
 

親を不機嫌にしないようにと配慮している限り、子供は親の奴隷です。
ですが、様々な力の差により奴隷化していくのです。

私の心の中は様々な苦しみに満ちていました。
 

恐怖心、怒り、悲しみ…


そして子供の私にとって、これらの辛い感情を処理する事が出来ず、「感じないように」と心の奥底へと追いやり、無意識に抑圧していったのです。


本当は、いろいろと自分自身の事を話したい。
聴いて欲しい!

そう思っていても、「話すとまた痛い目に遭うよ!!」と、無意識に抑圧された恐怖心や悲しみが警告を鳴らし、話す事が出来ないのです。


話す事が無い訳でもなく、苦手な訳でもないのです。


今日も読んで頂いてありがとうございます🌸

トラウマが引き起こす、様々な身体症状

トラウマの経験が引き起こす 戦慄の衝撃は、私の心や身体に多大な影響をもたらしました。

心に深い傷を残し、 日常生活に対するストレスや不安を高める原因となったのです。

私は常に人が怖いと感じていました。そのため、 いつも 心と身体は 防衛反応として緊張状態だったのです。


恐れ 不安 脅威…。


圧倒的な脅威や恐怖にさらされる期間が長かったので、心も身体もリラックスする事が出来なかったのです。


常に心臓がドキドキと早く脈打つのを感じていました。


トラウマの記憶や ショック状態 、そしてネガティブな感情は、身体を疲弊させ 自律神経のバランスも崩していきました。


呼吸が浅く早くなり 倦怠感や無気力を感じました。
冷えや筋肉のコリなども現れました。

そして、私の心は非常に傷つきやすくなっていたのです。
人の些細な言葉で、心に深い傷を受けることが多くなりました。


家庭の中で、長年にわたり繰り返される 傷つけられた経験は、心を傷つきやすくし 神経を過敏にさせていったのです。


この状態では 人と関わること自体が恐怖に感じ 、傷がえぐられることで体調を崩すことも少なくありませんでした。


周囲から投げかけられる 一言一言に敏感になり、その言葉がまるで胸に突き刺さるような感覚を覚えました。


みぞおちや心臓 、胃などが痛くなるのです。


そうならないように、ならないようにと、 小さく 小さく 静かに生きているような感じでした。


人の些細な言葉にひどく苦痛を感じ、イライラしたり、 落ち込んだり、 涙がこぼれることが多々ありました。


自分の居場所が見つからず 世界中の人が敵のように感じられたのです。


苦しい……。
辛い……。


なぜ自分だけが、こんな思いをしなければいけないのか。


何とかしたい。
この苦しみから逃れたい。
どうしたらいいんだろう…。


改善、解決策を探し求めていきました。


読んで頂きありがとうございます。

人が怖い。男性とお付き合いした経験もなく…

皆さんこんばんは。


私は男性ときちんとお付き合いしたことが一度もありません。
なんとなくそれっぽい人は1人いましたが、お付き合いしたという感じではありませんでした。


私は子供の頃、子供として生きることができませんでした。
お母さんに甘え 、お父さんに頼る。
自分という人間を、無邪気に表現する。
自分の感情や欲求をのびのびと自由に言葉に出す。


子供として当たり前のことができなかったのです。


ただそこにいるというだけで攻撃され否定される 。
子供にとって一番必要な、家庭が安心 安全な場所ではありませんでした。


親との精神的距離が遠かった分だけ 、人との距離も遠いのでしょう。


私は結婚し、子供を作り、家庭を持つという、 そんな望みは一切ありませんでした。


ただただ、もうこれ以上傷つきたくない。その 一心 だったのです。
そして、この気持ちは当時は無意識だったと思います。
表面意識では 人が怖い、 近づきたくない、 近づいてきて欲しくない。という気持ちでした。

安心感を切望したのです。


男性とお付き合いしたり、結婚し家庭を持つという事は、非常に親密感を必要とします。


私も親密感がとても欲しかったのですが、それ以上に 人が怖いという気持ちが強烈にありました。


本当は仲良くなりたい。
でも怖い。


よくよく考えれば、親と人は違うのですが、この当たり前のことを受け入れることができませんでした。


最も親密感が必要とされる人ですら 、親密感を築けなかったのですから、他人と親密な関係が築けるとは到底思えなかったのです。


そして、幸せな結婚生活というものが、全くイメージできませんでした。
両親が仲良く、 温かい家庭、団欒、笑顔、そして、子供への暖かい言葉。そういうものを目にしたことがないのです。


見たことがないものは、イメージができないのです。


結婚したら地獄にいく。
子供を作ったらその子の心を殺す。

こんなイメージしか持てませんでした。


まるで野良猫のようです。

本当は安心したい。
安全な居場所が欲しい。
愛されたい。


。。。でも 怖い。


私は人が、本当に怖かったのです。

恥ずかしという気持ち

私は小学校の頃より「恥ずかしい」という気持ちが強くありました。

誰でもあると思いますが、私の場合 尋常ではなかったのです。

何と言うか 、女性であることがとても恥ずかしかったのです。

 

小学校の運動会でダンスがありました。男の子と一緒に手をつないだり腕を組んだりして、一緒に踊るのです。私は男の子と一緒に手をつなぐのがとても恥ずかしくて嫌でした。あまりにも拒否していたので 、体育の先生によく怒られたものです。好きな異性とか関係なく、 異性と一緒にいることがとても嫌で、恥ずかしかったのです。

 

父は何か気に入らない事があると、よく怒鳴っていました。

日常茶飯事的に責められていましたので、この頃から 私は自信のない子供でした。そして女性性を抑圧し、男性性を使って父と戦ってきたのです。

 

私たちの多くはゴキブリが嫌いです。

 

ゴキブリを発見すると嫌悪感があり 、叫んだりするのではないでしょうか。

ですが 、ゴキブリはただそこを歩いているだけなのです。ただ歩いているだけで、嫌悪感を示され 攻撃されます。

私もまた、ただそこに存在するというだけで、 父から攻撃を受けたのです。

 

ご飯を食べること

勉強をすること

テレビを見ること

学校に行くこと

 

父にとっては、それらがとても気に食わなかったのです。

そしてどんなに攻撃されても、母は守ってくれる事はありませんでした。

それが常日頃でしたので、「守って欲しい」という欲求も発想もありません。

私の原家族では、「守られない」ことが「常識」だったのです。

 

ゴキブリと同じように、ただそこにいるというだけで攻撃されてしまう。この経験は私にとって、間違ったセルフイメージを持つのに十分な経験でした。

 

私はどんな時も攻撃されてしまう悪い人間

私は何か汚いもの

私は誰からも歓迎されない。

私は誰からも守ってもらえない

 

無意識にこのような自己概念を持ったのです。

 

私は何か汚いもの、だから攻撃されてしまう。

 

例えば、もし、お手洗いが間に合わなかったら、私の体は排泄物で汚れ、臭うでしょう。そんな自分に、異性が近づいて来られては困るのです。臭くて汚いのがバレてしまうから。

そしてばれた時、非難されてしまう恐れがあったのです。もちろん、臭くて汚い女性は嫌われるでしょう。

私は無意識にこのように思っていたのです。

 

このセルフイメージはかなりの 自己攻撃、 自己嫌悪です。家庭環境により 、私が私に貼ったレッテル なのです。

ですが 無意識 なので、長年 気がつくことはありませんでした。

 

ただただ 恥ずかしくて、 異性に近づいて来られるの嫌だったのです。

 

 

 

 

夜の公園で勉強

私の父は何でキレるかわからない人間でした。
ただそこにいるというだけで、 父は私を怒鳴りつけたのです。
何か悪いことをしたから 叱られるのではなく 、良いことをしようと 、悪い行いをしようと関係なく、父は暴言を吐き暴力を振るってきたのです。

夫婦喧嘩は日常茶飯事で、誰が呼んだのか分かりませんが、 警察が家に来ることもありました。

毎日毎日繰り広げられる 醜い喧嘩。汚い言葉使いと怒鳴り声。罵り合い。まるで動物のように、お互いが掴みかかり、レスリングのように倒したり倒されたりの喧嘩。

人間はよくも悪くもその環境に慣れてしまうのか、どうやったら静かな環境で勉強できるんだろうかと、冷静に考える自分がいました。両親の醜い喧嘩は腹立たしく悲しい気持ちはありましたが、「うるさい!勉強が出来ない!」と、いくら 叫んでみたところで喧嘩が収まる事は1度もありませんでした。


私は高校生の頃部活はせず、学校が終わるとそのまま図書館に行き閉館するまで勉強していました。
その後は家で適当に食事をした後、公園で勉強するのが常でした。

外灯がある 一番明るい場所がブランコのあるところです。私はブランコに座り、膝の上にノートと教科書を置いて勉強しました。

夜の外灯には羽虫が寄るため、
私の教科書は羽虫だらけになったのです。
押し花ならぬ押し虫で、教科書が薄茶色く汚くなりました。それでも家で勉強するよりはマシだったのです。


今考えれば、真っ暗な夜の公園で 若い女性が1人でいるというのは、大変物騒だなと、とても怖く感じます。ですがその当時の私は感情が麻痺していたのか、怖いという感情すらも感じなかったのです。
と言うか抑圧して感じなくしていたのでしょう。


当時は
「あんな 親のような人間に絶対になるものか!」
「こんな生活は絶対にしたくない!」
「頑張って勉強して、出来るだけいい大学に入ろう」
「そして稼げる人間になり、早く家を出よう」


家庭環境が悪いのは私に責任はない。でも、努力しないのは自分に責任がある。自分に出来る最大限の努力をしよう。


後悔しないように、親を反面教師にして勉強しました。
ですが、後に気が付いたのです。私が一生懸命勉強してきたのは、単なる「慰み」だったのです。


自分の将来のため、親を 反面教師として頑張ってきたわけではなく、自分の「居場所」が欲しかったのです。


不良になるほど私には勇気がなく、ただただ自分を支える「 何か」が欲しかったのです。


勉強している間は辛い出来事を忘れることができました。
何かに集中していると、寂しさや 辛さ 悲しさを忘れることができたのです。


私は勉強している間だけが
唯一の「慰み」になり、自分の「居場所」となったのです。